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院長の大叔父にあたる洋画家「浜地清松」の紹介ページです。

img_0222.jpg姉と和歌山県立近代美術館に行ってまいりました img_0232.jpg「赤い帽子」1928 img_0270.jpg牡丹 img20210629165839584132.jpg「暖炉」1911 img_0280.jpg27歳 御次男浜地洋二郎様提供 img_0284.jpg瀞峡 御次男浜地洋二郎様提供 img_0223.jpg卒業証書 御次男浜地洋二郎様提供 img20210630213147415749.jpgニューヨーク時代の画家仲間と img_0282.jpg1885〜1947 御次男浜地洋二郎様提供 img_0313.jpg御次男浜地洋二郎様提供 img20210630213408436661.jpg作品のまえで 御次男浜地洋次郎様提供 img_0356.jpg院長 所有 img_1006.jpg院長 所有 img_0311.jpg古典の連想 img20210630213436387125.jpg清哉(八ヶ月の赤ん坊ー院長の父)

学芸員の方が説明している動画

洋画家-浜地清松とは

アメリカ、そしてフランスで学んだ和歌山県出身の洋画家・浜地清松(1885-1947)。
和歌山県からは戦前、多くの人々が移民としてアメリカに渡っていますが、清松もそのひとりです。紀伊半島の南端にある和歌山県串本町津荷に生まれた清松は、1901(明治34)年に兄を頼って渡米します。そして1909(明治42)年にボストン美術館附属美術学校を卒業後、ニューヨークに移り住みました。
ニューヨークでは、図案制作などで生計を立てながら作品を制作し、郷里に近い太地町出身の石垣栄太郎(1893-1958)や岡山県出身の国吉康雄(1889-1953)ら同地の日本人画家たちとも交流しています。
1920(大正9)年に帰国した後は、郷里の少し北にある新宮市で洋画研究所を開きますが、1925(大正14)年に再び渡米。1927(昭和2)年にはパリへ渡りました。パリ滞在中に大きな公募展(サロン)に何度か出品して入選を果たし、1928(昭和3)年に帰国してすぐの帝展(帝国美術院展覧会)では、《赤い帽子》が特選となるなど評価を高めました。翌1929(昭和4)年には、第一美術協会の結成に参加。1947(昭和22)年に逝去するまで同会や帝展、新文展などを中心に活躍しました。
古典的でアカデミックな作風を展開した清松の作品は、例えば同時期にパリに滞在した佐伯祐三(1898-1928)たちと比較すると、「新しい」絵画ではないかもしれません。しかしその執拗な描写と画面構成は、清松独自のもので不思議な魅力を放っています。

和歌山県立近代美術館展示文引用転載

浜地清松 生誕から

1885(明治18)年、浜地松之助の次男として和歌山県東牟妻郡古座町津荷(つが)(現在の串本町)に生まれました。
津荷小学校、そして古座高等小学校を卒業後、1901(明治34)年、兄の清吉を頼ってアメリカの西海岸へと渡ります。
働きながらサンフランシスコのサンノゼ・ハイスクールに学び、在学中に描いた祖父の肖像が先生に認められ、ボストン美術館附属美術学校への入学をすすめられ、転向したといいます。
1909(明治42)年に卒業した後、ニューヨークに向かい、服飾の図案デザインの仕事などを続けながら、絵画の勉強を続けました。ナショナル・アカデミー・オブ・デザインなどにも通ったといいますが、なかなか足取りが掴みきれません。
《暖炉》(1911)は、現存する数少ないニューヨーク時代に描かれた油彩画です。
ニューヨークでは、郷里に近い太地町出身の石垣栄太郎(1893-1958)や国吉康雄(1889-1953)ら同地の日本人画家たちとも親しく交流しています。1917年、1918年には紐育美術協会主催の展覧会に出品しますが、この頃親しくした作家たちとの楽しげな交流の様子は、清松が旧蔵していた「画帖」に描かれています。後に画彫会となる日本人芸術家団体の立ち上げにも参加しますが、1920(大正9)年秋には日本へ帰国しました。

和歌山県立近代美術館展示文引用転載

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